■名前 吉川 敏文 よしかわ としふみ
■生年月日 1957年(昭和32年)
■出身地 奈良県桜井市
■出身校 奈良県立畝傍高校を卒業、
同志社大学・工学部を卒業
■家族構成 妻、子ども(息子二人)
■趣味 映画鑑賞、テニス、料理
■好きな食べ物 たこ焼き、お好み焼き、
焼き肉 (なぜか「焼く」が好き)
■好きな作家 司馬遼太郎

主な経歴
■1980年
(昭和55年)
ミノルタ㈱に入社
■1995年
(平成 7年)
堺市議会議員に初当選
■1999年
(平成11年)
堺市議会議員二期目に当選
■2003年
(平成15年)
堺市議会議員三期目に当選
■2007年
(平成19年)
堺市議会議員四期目に当選
■2011年
(平成23年)
堺市議会議員五期目に当選
■2015年
(平成27年)
堺市議会議員六期目に当選
■2019年
(平成31年)
堺市議会議員七期目に当選
■2023年
(令和 5年)
堺市議会議員八期目に当選
 
議会での主な経歴
■1996年
(平成 8年)
指定都市問題対策特別委員会副委員長
■1997年
(平成 9年)
建設常任委員会副委員長
■1998年
(平成10年)
環境保健常任委員会副委員長
■1999年
(平成11年)
平成10年度決算審査特別委員会副委員長
文教常任委員会副委員長
■2001年
(平成13年)
行財政改革特別委員会委員長
■2002年
(平成14年)
平成14年度予算審査特別委員会副委員長
文教常任委員会委員長
■2004年
(平成16年)
堺市監査委員
■2005年
(平成17年)
産業振興常任委員会委員長
■2006年
(平成18年)
市民環境常任委員会委員長
■2007年
(平成19年)
堺市監査委員
■2008年
(平成20年)
堺市議会副議長
■2009年
(平成21年)
堺市監査委員
■2010年
(平成22年)
総務財政委員長、泉州水防議会議長
■2012年
(平成24年)
堺市議会議長
■2013年
(平成25年)
関西広域連合議会議員
大阪水道企業団議会議員
■2014年
(平成26年)
堺市議会議会運営委員会委員長
■2015年
(平成27年)
堺市議会議会運営委員会委員長
■2016年
(平成28年)
堺市議会議会運営委員会委員長
■2017年
(平成29年)
堺市議会議会運営委員会委員長
■2021年
(令和 3年)
堺市議会議会運営委員会委員長
■2023年
(令和 5年)
堺市議会議会運営委員会委員長
 
議会での所属 と 各種審議会等の所属
■堺市文教常任委員会委員
■堺市都市計画審議会副会長
 
 
党役職
 公明党大阪府本部副代表
 同広報戦略局顧問
 公明党堺市議会議員団 団長
 公明党堺総支部 総支部長
 
【病弱な母を支えた少年時代】
 私は、奈良県桜井市の片田舎に長男として生まれました。 すぐできた弟を亡くし、母はそれ以来病弱になりました。 物心が付くころには母は、月の内半分ぐらいは病床に伏していたように記憶しています。 おかげで、小学生の頃には、ご飯をつくるのがうまくなりました。 病弱の母の病院代が家計を苦しくしており、それもあってか、よく親戚の家に預けられていました。

【父にあこがれ、エンジニアを夢見た学生時代】
 サラリーマンの父は、空調関係の設計の仕事をしており、よく家で図面を書いていました。 その姿をみて、小学生の頃から自分は、エンジニアになるんだ!と考えていました。 両親が、苦しい経済状況の中でも私のエンジニアになる夢をかなえるため、大学に進学させてくれました。 ただ、入試の勉強をしながら、よく「自分は、何のために生きているんだ」と悩んだこともありました。 しかし、多くの方々にも激励され無事進学を果たせたことに、いまも感謝の気持ちでいっぱいです。

【時代を先駆けた情報処理技術の開発に尽力】
 大学時代は、工学部で機械設計を学んでいましたが、これからはコンピュータの時代が来ると考え、 情報処理関係の単位も積極的に取得しました。 卒業時には、日本の得意分野である精密機械製造に期待をかけ、ミノルタ㈱に入社、 情報処理と機械設計の接点である生産技術の開発に携わりました。 CAD/CAMシステム(コンピュータで設計や工作機械を動かすシステム)の開発や FA(ファクトリーオートメーション)システムの開発、AI(人工知能)の研究などを行っておりました。

【“一人のために”感謝の思いで市議に挑戦!】
 約15年ほどそのような仕事をしておりましたが、諸先輩方の推薦により 平成7年1月にミノルタ㈱を退職し市議会議員に立候補。今日に至っています。

 最初の選挙は、平成7年4月23日でしたが、 地盤の関係で4月1日に引っ越しし、バタバタの中で選挙戦を戦いました。 何も解っていない私でしたが、多くの方々に支えられ、見事初当選を果たすことができました。 この時に、手弁当で応援していただいた多くの方々に本当に感謝すると共に、 どこまでも一人のためにこの身を使わせていただこうと決意しました。

【声なき声に耳を傾け、戦う議員の使命果たす!】
 そして、自分の力不足にジレンマを感じたり、体制の壁にやるせない思いをしたことも多々ありました。 プライベートでも、妻の脳腫瘍の手術、母が要介護5(平成16年7月死亡)になるなど苦しいときもありました。 しかし、応援していただける皆さまがいらっしゃる限り、 これからも最善を尽くしたい、挑戦し続けたいと思っております。
 政治も行政も、声を出さない数多くの庶民(サイレント・マジョリティー)に目を向けることがない。 このことに青年時代から憤りを感じていました。 その思いを忘れることなく、公僕としての使命を全うしていきたいと思います。